近況などがありました。
お久しぶりです。
小林葵(こばやしあおい)から
小林私(こばやしわたし)に改名をしました。
4月に新しく始めたアルバイトに慣れてきました。
大学生活はあと2年と半分になりました。
このままじゃまだ死ねない という音楽をするユニットを組んでいます。
歌を歌う相方の名前はクロニカル大崎(おおさき)です。
曲は二人とも書きますが、最近は専ら大崎が詩を、僕が音色をといった次第です。
最近、恵日という曲を書きました。けいじつと読みます。
詩も音色もすべて作:小林です。こういう曲は沢山あるのですが殆どが没になります。
何故か、という話でもないのですが大崎が歌うにあたって色々不都合が多いのです。
分かりやすいところですと、キーや活舌の問題。
しかし一番根本的な問題は、「彼の曲」ではないことでした。
敬虔なクリスチャンでなくても聖歌は歌えますし、生粋の日本人ばかりが演歌を歌うわけでもありません。黒人奴隷だけがブルースを歌う時代もとうに過ぎています。
しかしこれらには、線を綺麗になぞるだけでは出ない"生っぽさ"のようなものがあると思うのです。音楽だけでなく、芸術だけでなく、日常のすべてにそういうものがあって、背後や影、手垢のようなものが染みついている気がしてなりません。
運動が得意なやつって普段の身のこなしも格好良くないですか?インド人がやってるカレーって絶対に美味くないですか?笑顔が素敵なあの子は昔からきっと素敵なのでは?
何もしていない時間はこういうことばかり考えています。
こういうことばかり考えるために、貴重な時間を大切に大切にゴミ箱に捨てています。
何かをするとき、行為の湖に自分という石を投げ入れるイメージが湧きます。
大学の授業、アルバイト、落書き、楽器、読書、携帯ゲーム。
ぽちゃんと投げて沈みこんで、また終わるころに浮上をします。
色んなことをするときは、色んな湖に石を投げ入れます。
バイト先の先輩から本を借りました。ある男がどん底から宗教を立ち上げ人生の逆転を目論む長編小説です。仕事、社会、お金、宗教。
バイト先の別の先輩から絵の具等を頂きました。昔学校で使っていたもの、良かったら使ってくれだそうです。作品、学校、努力、お礼。
イケメンの育成ゲームにハマっています。知力、体力、そして人徳を極め、学園の主席を目指すストーリーです。三毛門紫音、すこ。
多分全部どうでもいいっちゃいい時間で、嬉しい事とか嫌な事とかもあったりなかったりで、昔から絶対似たような事しかしてないんですけど、今思い返してみても「なんやかんや良かったな」とぼんやり出来るだけで、どうせいつまでもこの恵まれた日々を思い出すだけなんだろうなと思いました。
そのおかげで「恵日」という良い曲が書けたので近々YouTubeにでもあげられたら良いかな。
小林私の曲はあくまで小林私にしか歌えないのだな、と。最近はそういう考えになりました。